蛇足

 あのひとは自分が駄目だと思っているから、子供とか動物とかにほんものの慈愛を持っているのよ。それでずるいところもあるものだから先生なんていう仕事を選んだにちがいないわぜんぶ騙して、慈愛だけを残すつもりなのでしょうね。それでもあのひとの持っている慈愛にはまだかたさが足りないの。飴と無知しかないの。そんなことはあのひとも自分で気づいているのよ。だから愛の無知の痴ね。恥はあるからなおさら厄介ですこと。
 あのひとときたらかつてがまくんが手紙を待ったように持ってもいないiPhoneの充電器をコンセントにさしっぱなしにするし、好きでもない缶コーヒーを眺めてそれが自分のアメリカだなどと考えたりするのよ。実際あのひとは蛙みたいなひとでね、自分から井戸に棲んで、出られなくなったの。それでときどき様子を見に行くのですけど、それなりに平気な顔をなさるわ。陥穽な住宅だろう、なんておっしゃって。屋根もない家なんてまったく未完成なのに。感性のないことね。学校だって井戸の一部じゃないの。あのひとは先生だから。「生徒は卒業して、先生は残る。そうでなければ学校にならない。巣立ちなどという言葉でごまかしてどうする。別離だ。これは別離だよ。その性質を生のまま飲んでから巣立ちにするんだ。卒業は別離の一種に過ぎない。そうであるならば、さようなら。さようならの後に何を言うべきか。さようならの代わりにどう表すのか」ですって。相手が子供でも動物でもないものだから怒ったように喋って騙そうとするのよ。あんまり憎らしいから「歌いなさいよ」と助言したわ。絶対そんなこと思ってらっしゃらないのがたまらなくって。わかっててやっている綺麗事への諦めきれない見放しよ。世間への阿りを入れればもっとこくが出て可愛げがあるでしょうに。
 それでもあのひとはごく稀に先生でなくなるときがあってね、「私はもっと勉強しないといけないと思うのです。きっと私が考えていることなんてとうに誰かずっと賢い人が考えていて既に答えも出ていると思うからです。そうであるならばそれならば。その答えを知らなければ私は私の答えを得られないのです。そしてその上で新しい考え事ができるようになるのだと思います。基礎をやって消えてしまう個性など消してしまえとどこかで習ったのです」とかなんとか喚いてすっかり蛙に戻るのよ。吐いた唾を飲むなとはよく言いますけど、吐いた弱音はどうすればいいのかどなたかご存知かしら。あのひとに教えて差し上げたいのだけど。

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