角笛(中)

 いつも通りなんとなく世界が赤茶けてきたなと思うと間もなくもこもこの上着が必要になって、友人はせっかくの就職をふいにしないために毎夜頑張っているらしかった。私はとうになにもかも諦めてのたのたしていただけだった。そういう気持ちになった時にだけ大学に入って友人を探した。彼はたいてい自分の所属する研究室にいた。
「進捗どうですか」
「お前やってみろよ」
「コーヒー飲まんか」
「25分後に生協前」
 15分後に生協に着くと彼は既にいた。そんなんだから研究計画と実態がどんどん乖離するんだと詰ると拙速がどうのとしか述べなくなったので彼女の話にした。
「あの人いま学会でベルギーだよな」
「アムステルダムはオランダだぞ。半端にしか人の話を覚えない奴だな」
「聞いていない話は覚えられない。ジャージで行ったのかな」
「もうスウェットの季節だろ。しっかりしろ」
ぐっとこちらの顔を見てくるのできまりが悪くなって気弱なことを言った。
「近頃は出会ってもあまり話せなくなってしまった。そうか、もうスウェットか」
 
 私がぐずぐずしているうちに友人はきちんと卒業して、引き続きずるずるする私と身分上は目上になった彼女だけが残された。彼女が実用一点張りの服装しかしない理由を解説できる人間はまったく私だけになってしまった。
 友人がいなくなって大学に行く理由が減ったと思ったが、他に行くところもないという理由で相変わらず学校を徘徊していた。やがて空気のねばりけが増して、彼女が同じジャージを着続けるようになった。気温が27度に達する日が増えたからである。スウェットの冬が終わってジャージの夏が来たとしみじみした。彼女とはもっぱら生協で鉢合わせした場合にのみ話す。その日彼女はマスカットティーを持っていた。
「すっかり緑だね」
「昨日は雨が降りましたから」
彼女はストローを口に含んだ。
「その、水が色をつけるというのは不思議でないか。なぜ薄まらないのだろう」
「実際にそのような疑問をお持ちですか。自分ではわかっていることを他人に聞いてどうするのですか」
 彼女に社交は通用しない。そういうことが出来る相手ではない。喉が詰まって、何も言えなくなった。ただ、ほんとうにきれいなひとだなと思った。

 それから取り立てて大きな変化のないままジャージの夏が過ぎて、すなわちスウェットの冬になった。彼女には生協で見かけるたびに話しかけたが、寒くなるごとに双方の言葉数は減って、口から出なかった言葉はひたすら私のお腹に溜まっていった。それでも彼女に何か言うことをやめようとは思わない。「なにもない」としか出なかったとして、やらなければならない。少なくとも社交をしない彼女が「なんですか」と聞いてくれるうちはやめるわけにはいかない。あの時たしかに責任を取るのだと、そう感じたのだから。ほんとうを見せてくれた人にほんとうを返さないでは済まされない。

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