栄養(1)

 六月、今年はまことに梅雨らしい梅雨になったと口々にのぼる頃、葉子は生まれました。本人は自分の名前があまり気に入っておりませんで、よくもこんな時代遅れの、古臭い名前にしてくれたものだと思っておりました。その名を与えたのは主に父の意向によるもので、父としては万象のいよいよ栄える季節にやって来たことを寿ぎ、さやけくそよぎつつのどかな影を世に降ろすことを願ってのことだったのです。その朴訥な父の言葉を幾度も聞いたものですから、葉子としてもそんなものだろうかとゆるやかな理解は持ち得ておりました。それでもやっぱりもうすこし他のがあったのではないかと苦いものは残っています。

 卒業式がつつがなく終わって、葉子はどちらかというとせいせいした胸であたらしい街にあたらしい生活をつくりはじめました。えりか、ゆい、あかり、それからまだいくらかの名前が浮かびましたが、そのどれも葉子の芯には届いておりませんでした。大学の新入生だというのにさっそくなにもかもつまらないような気分で、それでもまだ若さというものにわざと期待しているつもりで健康診断の列に並びます。知らない人ばかりがむやみにいるのでなんだか途方もない気がして、これが不安というものだろうかと思っていながら、葉子の目は手に手に持たれている紙の氏名の欄につい動きます。めいめいがまちまちな運び方をするので、そう簡単に見えるものではありません。かといって別段これから仲良くしようというわけでもないのに名前だけを教えてほしいと言うだけの無遠慮を持ち合わせない葉子は盗み見の不躾を自分だけの秘密にという条件で身勝手と知りつつ受け入れていたのでした。
 さき、ひな、あおい。ふたりめのゆい。おざなり気味に身長や体重や血圧などを測られ続けてくたびれた葉子が得たものは何もありません。相変わらずの薄い退屈と意識的な希望をもてあましたままレントゲン写真を撮られに行きました。レントゲンは外に停められた専用の車で撮ることになっています。玄関を出ると容赦のない春の大気がおしかけてきたので葉子はあまり呼吸をしないようにして検査車に向かいました。女子学生に割り当てられた車には貼り付けるようにしてテントがたてられていて、そこで受付をして上着を脱ぐことになっていました。葉子はぴったりと閉じられたテントに注意深く入りました。中には既に幾人かの新入生たちがいて、うようよしています。受付にはひとり先客がおります。その後ろに並んだ葉子がほとんど習慣的に覗いた紙には「英子」とありました。
 えいこ、えいこ。口に出しているのかどうか葉子にはもうわかりませんでした。すっかりうろたえてしまって、「ひでこ」だったらどうしようかと考える余裕もありません。ぞんざいに受付をすませて急いで、それでいてなるべく静かに英子の傍に立ちます。どうしてそういうことをするのか説明ができません。英子は葉子に少しの頓着もしないでするすると上着を脱いでゆきます。あらわれた英子の二の腕を葉子はつい見つめてしまったので、英子も葉子の存在を認めて、その不思議な観客に対してはにかみの顔と言葉を与えるのでした。
「あんまり見られると恥ずかしいのですけど。何かおかしいかな?」
相手が生身の人間であることを半ば忘れていた葉子はその問いかけから不意の出来事への硬直と、英子への失礼に対する懺悔と、正体のわからない感動を受けてめっきり緊張してしまって、「あ、いえ。まったく。ぜんぜん。すみません」と返すのが精一杯でした。英子はちょっと首をかしげただけで済ませて、すぐに検査に向かってしまいました。残った葉子の方は自分の上着を脱ぎながらああ言えばよかったとか、白磁のようだったとか、こう伝えなければとかの思いを回していました。混乱した葉子が至った結論は、とにかく英子を追うということでした。その理由も目的も原因も杳として知れません。自らに似た、古風な名前に惹かれたのでしょうか。思いのほか低かった声をもう一度聞きたかったのでしょうか。いずれにせよその時の葉子には猶予がありませんでした。先に検査を終えた英子が視界から消えてしまう前に追いつかなければなりません。

 レントゲンを撮られた葉子が車から降りると、英子はちょうどテントから出てゆくところでした。素早く身支度をしてテントを出た葉子は、できるだけ大きく、深く息をしてから駆け出しました。

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