醴泉

 老先生はひとりで暮らしている。教鞭を取っていたころには教え子とも学生とも言える人たちがいて、褒めたり叱ったりしていた。彼らからの評判がどうだったかについて、老先生はもう気にかけていない。彼らは最早どこかに行ってしまって、連絡を取ることもない。用事もないのに先生に連絡を寄越すような人格を見なかった。何かの拍子に意識に浮かぶ者がいないことはない。
 老先生には仕事がない。何かをしてお金をもらうということから離れてしまっている。何年も何かをし続けたという理由で単にお金をもらっていて、それで生活をしている。そういう状況についてくわしい仕組みを知ろうとすることを意図的に避けている。なにしろ自分は既に先生ではないのだという気概を失いたくなかった。
 退職者と呼ばれる人類はえてして何か新しい趣味を始めたり、ずっとやりたかったことに熱中したりするものだと思っていたが、老先生はひとりで、やりたいことはなかった。思えば教室にいた若いのに向かって夢とか目標とかそういうものについて喋ったこともなかった。そういう先生がいることに価値すら覚えていた。で、やることのない老先生になった。
 することがないということとなにもしないということは異なるので、老先生は外出もする。書店や文房具店は馴染みやすいのでほしいものがなくても一通り眺めることになる。絵葉書があった。じんわり流していた目が椿の描かれた一葉にとまった。手に取って鑑賞して、ほしいと思った。緑青色の地に幾輪かの赤い椿がぽかぽか咲いて、それぞれの真ん中に黄色い蕊が通っている。
 手に入れた椿の絵葉書を持ったまま老先生はめったに行かない雑貨屋に行った。額縁を買おうとしたのだった。なるべく無垢な、木製の額に入れたかった。椿が何枚も買える値段がついていたが、そのことについて感想はなかった。
 誰もいない家で絵葉書を額に入れて飾った。自分以外に通るもののない玄関に椿が咲いた。

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