拍子

ずっと花というものに憧れがありました。
古今東西さまざまなところでたくさんの人が花について
絵を描いたり詩をつくったりします。
皿や服や調度に花をあしらいます。
当然、私もそういうものを見たり聞いたり、
ことによると触れたりしてきました。

どういう経緯であったか、またいつのことだか
まったくわかりませんが、とにかく何年も前のことです。
中原中也が太宰治に「お前は何の花が好きなんだ」と聞いた
という話を知りました。
太宰は「桃の花」と答えたそうですが、
その時私は中也に答えることができませんでした。
私は私の好きな花を知らなかったのです。

以来、野に出たり食器を眺めたり文章を読んだりするときなどには
急に「お前は何の花が好きなんだ」と問われてしまって、
もじもじするような気分になりました。

「この花が好きだ」と言いたい。
そういう気持ちが消えて浮かんでまた潜りました。
そのうち私は紅梅が好きなのだと思うようになりました。
かわいらしい赤い丸みが木の枝にぽかんとしている様が好きだ。
まだ寒い、春にならないうちに顔を出すところが好きだ。
縁起が良いところが好きだ。
生家の襖を思い出させるのが懐かしい。
そのように思いました。

それでもその「紅梅」は花というよりは図案なのでした。
紅梅の花ではなく紅梅の絵が好きなのでした。

そうやってまごまごしているうちに、花瓶をもらいました。
自宅を整理していて不要になったから君にあげる、
という理屈で私の陋屋に据えられました。
空の花瓶ほどさみしいものはないので何か花を挿そうとして
花屋など覗いてみても、一時に百花が繚乱していてくらくらします。
目が眩んでも花への憧れは消えなかったので、
私は農産物の直売所に花が売られていることを思い出せました。
そこにもとりどりの花が繁茂していましたが、
花屋のように煌びやかでなかったので選び取ることができました。
タンポポのような花弁の菊、白と紫のトルコギキョウ、真っ赤なダリア、
萎れるたびにちがう花を飾りました。
毎日水を取り替えて、案外長持ちするものだと思い、
ああ、きれいだと感じ、とにかく生活に花が添えられたのです。

未だ私は私の好きな花を発表できません。
明日も水を新しくして、
名前を忘れてしまった黄色い花がせめて健やかにあれと願います。

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